日本亡国予想

 近いうちにこのままの政治のあり方では日本は、なくなってしまうであろう。政治科のモラルの低下、企業のモラルの低下。マスメディアの(時にTV)いい加減さ。
 さて、モラルとは、宗教の名の下にしか発生せぬ概念である。日本人の多くは、宗教などを信じていない。聖書文化にしても、聖書を信じる人間がたくさんいて、そして、なぜ人を殺しちゃいけないか?とか、物をぬすんじゃいけないのか?とか、聖書がいけないと書いてあるからだ。日本のモラルというものは、「世間様に顔向けが出来ない」とか「みんなやってるんだからいいじゃん」とか「ばれなきゃいいじゃん」など、基準が周りの多くの人なのだ。こういう国は私はファシズムに陥りやすいと思うのだ。
 日本にも仏教、神道などがあるが、これは、葬式を挙げるだけの存在になっていやしないだろうか?お経と言うものは、死んだ人に向けた人へのメッセージではなく、生きている人へのメッセージなのだ。ひとつ、葬式などに坊さんを呼ぶときにはそういう事を頭に入れて欲しいのだ。ちなみに私はどこの宗派にも属していない。しかし、どの宗教も、人間に道徳を与えるものである、そういう事を覚えておいて欲しい。
 
 次に、天皇制廃止をするべきである。今の世代20代から40代くらいの人間は天皇陛下などどうでもよいことだとおもっていると思う。税金の無駄遣いだし、前天皇というのは、どのような理由があろうとも、A級戦犯とともに処罰されるべきであったと思うのだ。大体、天皇は象徴である、と言う文面と、天皇人間宣言って矛盾していると思う。
 
 靖国神社参拝問題。一国の首相が参拝することは別にかまわない。ただ、あそこに祭られているのが、若く、行きたくない戦争に行かされた者たちのみを奉るべき場所ではないのだろうか?けっしてA級戦犯と一緒に奉られるべき場所ではない。

 北朝鮮と中国の脅威、これは、日本が自衛隊を日本軍とし、核を保有しない限り、この先ずっとアメリカのいいなりである。さらに、北朝鮮、中国と戦争になったとき、アメリカが必ずしも助けてくれるとは限らない。自衛隊は事実上軍隊なのだから、憲法をいち早く改正すべきである。

頭を悪くするTV、芸能人

 昨日、細木数子の「ずばり言うわよ」をゲストが、ジャッキー・チェン成龍)だったからみたのだが、細木の占いはあてにならない。鵜呑みにしてはいけない。私から言わせれば、あのババァは、単なる色ボケ、金ボケした、下品きわまる人間に他ならない。ババァのTVは視聴率が良いが、あれは、彼女が、マスコミ、大衆の受けがいい「渡世術」を知っているからだ。ほかにも頭の悪くなるTVがあるので列挙しておこう。
 「たけしのTVタックル」
 「報道ステーション
  「細木関係のTV]
  今のところそれくらいしか頭に浮かばないがそれは、わたしは、TVという存在は、ファシズムの道具としての恐ろしさ、視聴者は受け手であるため、自分の意思、考えが、TVに洗脳された事しか言えなくなる、つまり、読書と違って、情報が垂れ流しであり、自分の読もうとする意識とは関係なしに、知らず知らずのうちに洗脳されているからだ。そして、TVというメディアは報道ですら、真実を曲げて伝える。特に民放は、スポンサーがパトロンとなっているため、報道番組ですら、スポンサーの会社の事は悪く伝えることが困難だ。
 所詮TVというのは、大衆向けのエンターティメントという事を知っていただきたい。
 「たけしのTVタックル」は飯時親父がこの番組が好きで、どうしても嫌でも視界に入ってしまうのだが、あそこに出てくる出演者は、頭の悪い連中だという事を学んで欲しい。そして、政治家というのは、すべてとは言わないが、ああいう番組にでて、政党の支持率を上げる手段である、と思ってくれていい。出てくる「お題」は「アメリカ、中国」がメインだし、ほかにも、メディアであるならば、出さなければいけない情報がたくさんあるだろう、と言いたい。大衆には、もっと利口になってほしい。真実は、本にあり、インターネットにあり。というのも、本もインターネットもスポンサーの圧力というのが存在しないので、書き手も真実が書けるというものだ。週刊誌は別として。
 現代も、大衆心理は、第二次世界大戦大日本帝国と変わらない。いつ、また、あのような悲劇が起こるか、私は心配である。
 所詮TVはエンターティメント、視聴率とって何ぼの世界である。そんなTVが真実を伝える事は出来るとは思えない。
 
 
 

音楽論1

 音楽は商業主義に屈してはならない。これは、その他すべての芸術にいえる事であるが、芸術とは内なる心の表現手法である。ただ、作り手の自己満足で終わっているものは、芸術とは言えないだろう。内なる心の表現が、人々に支持されないものであればいけない。ただ、間違っていけないのは、芸術の受け手が、それなりの美意識をもった、識者でなければ、いくら、大衆に指示されようとも、それは単なるエンターティメントに過ぎない。って何がいいたいのか?と、思われるだろう。久々に素晴らしい音楽に出会えたのである。ケイト・ブッシュ

エアリアル

エアリアル

これを聞いたからだ。はっきり言ってそれまでケイト・ブッシュといえば「嵐が丘」くらいしか知らなかったのだが、Amazoneのレヴューを見て、思わず購入してしまったのだ。魂を癒す音楽。そういってもいい。ライナーノートに書いてあったのだが、ケイトを見出したのは、かのPINK FLOYDのディブ・ギルモアというのだからなるほどと思ってしまった。かといってケイトの音楽はプログレでもないし、ロックでもない、ポップとも違う。ケイトの音楽、としか形容の使用がない音楽だ。音楽ツウの方には、ぜひ、ジャンルにこだわらず、聞いて見て欲しい。PINK FLOYDが好きな貴兄であれば、なおさら聞いて欲しい音楽だ。

質問

http://q.hatena.ne.jp/1142631055
に関連する質問です。「哲学に希望はあるのか?」です。たとえば渋沢竜彦氏は、労働とは、美徳でもなんでもない。マゾヒストの自己満足であると、そのような意味の事を語っております。自分にキツク、厳しくというのはある意味、マゾヒスティックな快楽であり、ランナーズ・ハイ、と同じ様なものである、という事です。私の見解では、労働は美しい、という一般的見解があるように思われますが、テクノロジーの発達というのは、労働を楽にさせようとするものです。さらには、これによって、人間はどんどんテクノロジーに頼ってしか生きていけないようになっています。これらの事からすると、労働は美徳という価値観は無理があると思うのです。人間、楽をしたいから、テクノロジーを発展させていく、このテクノロジーの開発という労働は、人間の労力のコストを下げるもので、身近な例で言えば、自動改札口による、人員削減ですよね。人間より機械の方がコストが安い、という事です。とすると、労働者というのは、行き場所がなくなってはこないでしょうか?支離滅裂で、起承転結のない、文法もめちゃくちゃな質問ですが、きょうみがあれば、書き込んでください。

愛と死をみつめて

 見た。デビュー当時から彼女のファンだったから見たのだが、涙腺に来た。人間、大切なものを失なって初めて後悔するのかもしれない。そして、一日一日を大切に生きるのだと思った。思えば、俺は、温室育ちのおぼっちゃんかもしれない。家にはいろんなものが置いてある。膨大なCD,パソコン、大量の本。そして、女にうつつを抜かしていた。純愛とはかけはなれた、肉欲だろうかと今は思う。たとえば、自分の家にギター一本しかなかったら、ギターをこよなく愛していただろうと思う。すべてが、中途半端。欲張りすぎ。音楽やりたい、絵描きたい、パソコンやりたい。そこそこすべて、こなせるが、どれも趣味の粋をでていない。プロとして、やっていけるレベルではない。いろんなこと、出来る人もいるかもしれないけど、俺には不可能なのかもしれない。そして、人を愛せないのかもしれない。憎しみだけが俺を支えてきた。次はいつ書けるか分からない。オタクの引きこもりの社会生活不適合者、才能さえあれば、肩身の狭い思いをすることもなかっただろう。ガンズのアクセル、HELLWEENのマイケル・キスク、ウリ・ジョン・ロート、才能があるから、収入があるから、何年も現実から遠ざかることが出来る。

久々に文章をUPしてみた。

 コンピュータについて語ってみようと思う。

 さて、コンピュータを含め、これ以上のテクノロジーの進歩は人間を退化させてしまう。例としてコンピュータを出したが、これ以上のスペック向上に何の意味があるだろうか?
 私は、コンピュータを使っているが、コンピュータが好きなわけではない。いわば、強迫観念的にコンピュータを使用しているのだ。確かにテクノロジーの進歩の恩恵に私は与っている。たとえば、私はとてつもなく字が下手だ。現代に於いて、字が綺麗な事が、あまり意味を持たなくなっている。が、代わりに漢字がどんどん書けなくなっている自分に気が付く
。 取りあえず、ここで終了。